Bellwood meets TOKYO BOOT UP!

WOODSTOCKは43年前。そしてここ日本では、LOFT、さらにBELLWOODが船出したのが40年前です。

いずれも20代の若者の冒険でした。40年前こそ、レコード業界が、芸能界から音楽界への分水嶺とも言えます。

また、ミュージシャンがアーティストとも呼ばれだす時代でもありました。

いま複雑多岐に変化する中、この40年前後を改めて検証し次代を考察する絶好の機会と思います。

まずは、開催前に、BELLWOOD RECORDSについてチェック!

第2回 山平和彦「放送禁止歌」

 今回の「Bellwood 40th Anniversary Collection」の中で最大のトピックと言えば、山平和彦さんの「放送禁止歌」が初めてオリジナル・ヴァージョンで復刻される事です。

 今年の春に和久井光司さんが「放送禁止歌手 山平和彦の生涯」という本を刊行されて、再び脚光を浴びている山平和彦さんですが、Bellwoodには活動の全盛時に作られた3枚のアルバムが残っています。その中の1枚が、まさにBellwood Recordsの会社としての旗揚げ第一弾のリリースとなった「放送禁止歌」でした。

 しかし、既に先行シングルとしてBellwood Recordsの発足以前にキングレコードからリリースされていた「放送禁止歌」に続き、収録曲の「月経」と「大島節」がわいせつ表現と判断され、民放連から放送禁止の処分を受けるハメに陥りました。レコ倫からも不適切とされてしまい、アルバムは発売日直後即発売中止、その1ヵ月後にはこのオリジナル盤の回収~問題の2曲を差し替え、アルバム・タイトルを「途中」と改題しての再発という事態に発展したのです。

 その後、Bellwood作品の幾度かのリイシューの過程でアルバム・タイトルこそ元の「放送禁止歌」に戻りましたが、中身はずっと「途中」の内容のままでリリースされ続けていました。

 オリジナルの発売は1972年。40年の刻を経た2012年の今、大抵の方、少なくともここTOKYO BOOT UP!に集う様な方々なら、この2曲の歌詞を見れば、どこが「不適切」だったのか疑問を感じるはずです。その当時何が具体的に問題だったのか、その頃はまだ小学生だった僕が語るのは難しいですし、巷間様々な問題提起や議論も重ねられて来たものとは思いますが、そうした事を抜きにしても。間違いなく今、これはその様な不当な扱いを受ける作品とは断言できます。

 今回レーベル創立40周年にして、初めて元プロデューサーの三浦光紀さんが総監修を務める事となったのですが、その再発すべきラインナップを検討して行く中で、「『放送禁止歌』ってオリジナルで出せないものかねえ?」という機運が高まり、レコ倫への再審査を請求するに到りました。

 そしてレコ倫からは約2カ月近くの審査機関を経た8月末に「問題なし」と判断され、ついに発売が実現に到りました。

 いわゆる表現上の問題が懸念されても、著作者が逝去していたり、時代における表現の有態の変遷などを尊重して、当時の著作物をそのまま発売し続けるというケースは増えて来たかと思いますが、一度ダメ出しされたものが再び発売を許諾されて日の目を見るというのはかなり画期的な事と受け止めています。

 もちろん、まだ「放送禁止」という処分が解けた訳ではありませんが…。

山平和彦さんは生前「歌がもし生きているとしたら…、僕は誕生間もない子供を殺された様なものなのかも知れないですね」と無念を語っていたと伝えられています。交通事故により52歳にしてお亡くなりになられたのが2004年の10月12日。早8年が経とうとしています。ご存命中に本来あるべき作品そのままの形で再発できなかった事を残念でなりませんが、蘇った名盤が末永く販売され続けて行く事を願ってやみません。

TOKYO BOOT UP!へ集う様な若い皆さんに、山平和彦さんの「うた」はどんな風に受け止められるのでしょうか。ぜひ聴いてみて下さい!

 

 

Bellwood 40th Anniversary Collection

スタッフ 渡辺晋輔

 

Bellwood 40th Anniversary Collectionのインフォメーションはこちらから

http://www.kingrecords.co.jp/bellwood40th